非Aの世界
高校一年のとき級友の K 君に表題の SF 小説を勧められた。非A は「ナルエー」と読み,命題 A の否定ではなく,アリストテレス論理の否定を意味する。「非アリストテレス的論理学」のアイデアは,著者ヴァン・ヴォークトがアルフレッド・コージブスキー(1879-1950)の「一般意味論」にインスパイアされたものという。小説じしんはヴォークトらしい「銀河をめぐる荒唐無稽な活劇もの」である(笑)。なお,この K 君は活字なら何でも読むという強者で,同じ頃に岩波古典文学大系版『源氏物語』(全5巻)を読んでいると聞いて驚愕した思い出がある。
こんなことを思い出したのは,デジタルコレクションから「世界の名著」第2巻『大乗仏典』をダウンロードして読み直したからである(現物を持っていても書斎を探す手間が省けるのは予想外に便利だ)。特に「中辺分別論」および「認識と論理」を再読して「龍樹の中観論は非A哲学に他ならない」と思い付いたのである。龍樹(ナーガルジュナ)は,性質 A を持つものと持たないものの他に「性質 A を持ちかつ待たないもの」があるといい,それを「中道」と呼んだ:例えば「過去と未来の他に現在がある」ように。
通常の集合論では「過去の補集合は現在を含む未来」「未来の補集合は現在を含む過去」である。過去・現在・未来の3つから成る,としても良いがその場合の各補集合は他の2つの和になる。龍樹に倣って $\Omega=A \cup \bar{A} \cup (A \cap \bar{A})$ の3つから成ると仮定しても,分配則・結合則などの論理規則を適用すれば $A \cap \bar{A}=\phi$ が導かれてしまう:まさに「空性」である。非A論理を実現するには「普通でない論理規則」を採用する必要があり,それは相当に困難である。実際「否定の意味を変える」ことを考えた後進もいたらしいがそれではうまく行かない。
龍樹の三区分や後の四区分などを,近頃では「トリレンマ・テトラレンマ」などというらしい。山内得立『ロゴスとレンマ』が発祥(アリストテレスの論理をロゴス,龍樹の論理をレンマと呼ぶ)らしいのだが,デジタルコレクションや市立図書館にも置いてなくて残念ながら未見である(古書は1万円近くするので断念した:笑)。ちなみに,山内(1890-1982)の師匠である西田幾太郎(1870-1945)の著書群もコレクションに入っていないが,理由がさっぱりわからない。
レンマは数学では「ワイエルストラスのレンマ(予備定理)」のように定理と並べて用いるので,山内の「ロゴスとレンマを並置する」使い方は理解に苦しむ。ちなみに数学史家アルパッド・サボー『数学のあけぼの』(コレクションで読める)によれば,「ロゴス」も元々はギリシャ語の「比」を意味したそうで,アナロジーという言葉も「アナロゴン=比が同じ」に由来するという。
最近は「日本人ファースト」を唱える人が増えている(笑)。ラドヤード・キップリングの「東は東,西は西」を引用した岡倉天心に倣って,西田・山内のように「東洋の再興」を唱える人も多いが,キップリング詩の後半も読んで欲しいものだ。そんなわけで,非A哲学は学問ではなくて,ヴォークトのように虚構として楽しむか,あるいは「不合理ゆえにわれ信ず」の宗教と考えるのが無難であるようだ。
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