倉石武四郎先生と頼和太郎君のこと
中国文学者の倉石武四郎(1897-1975)という人をご存知だろうか。私自身は講義や講演を聞いたこともなく,たんに著書をいくつか読んだだけであるが,妙な親近感を抱いている先生である。というのも,先生は私の友人の頼和太郎君(2021.12.16 のブログ参照)の母方の祖父にあたる人で,時折り彼を通して噂話を聞いていたからである。内容のほとんどは忘れてしまったが,彼が「倉石の爺さんが」と楽しそうに話す姿を覚えている。頼君は幼少時に「素読」をやったそうなのだが,それは倉石先生によるのではないかと想像している。湯川秀樹先生によれば「素読は父ではなく祖父がやるもの」らしいからである。
著書の一つ岩波新書『中国語五十年』を読むと,先生は中国書籍を読む際に従来の「訓読」ではなく「原音」でやることの意義を(江戸期の荻生徂徠を別にして)いち早く指摘し(今では当たり前になっている)辞書や音韻表記について工夫・実践した先駆者であったことがわかる。先生の一代記でもあるその本に挙げられた数々の挿話からは,進取の気質・豊かな才能・愛すべき人柄が読み取れるのだが,それらを頼君が遺伝的に引き継いだ(笑)ということもよくわかる。先生は吉川幸次郎先生と友人・同僚でもあったのだが,その学風や性格は対照的であるようで,一口に言えば「倉石:吉川=新:旧」といったところだろうか;もちろん「旧」に尊敬こそあれ悪い意味はない(笑)。
駒場時代のあるとき,中国語履修組の別の友人が『毛沢東語録』の一節を(中国語で)朗々と読み上げ,周りの人間は呆気に取られて聞いていたことがあった。頼君は笑っていたが,あるいは彼の喋る中国語を理解できていたのかもしれない。その友人は別の機会には田村隆一の「四千の日と夜」を(日本語で)やはり朗々と暗唱して朗読の才を大いに披瀝したのだが,どちらもいくぶん陶酔気味だったとは思う(笑)。近頃テレビで韓流・華流ドラマを観るようになり,語学講座も視聴してみたが,私にはそちらの才能がないことを再確認した。
なお,上記の岩波新書本を含む倉石先生の著書群は,前回ブログに挙げた国会図書館デジタルコレクションに入っており,自由に読むことができる。また東京大学の東洋文化研究所には先生の(京大・東大における)「講義ノート類」が保存されているという。今回調べて驚いたのは『中国語五十年』がアマゾンで3万円超え(!)の値段が付いていたことである。もちろん穏当な価格の出品もあるのだが,悪質とも思われない「某本舗」がこんな不可解な値段を付けている理由がわからない。
0コメント