数独は迷路に似ている?

(1)迷路の問題(例えば下図)を解いていると,通常は途中で何回か分岐があって,正解以外では最後に行き止まりにぶつかり引き返すことになる。そして,行き止まりまでの経路が長いほど難しくて,それが却って面白く感じる,というのが人間心理であるらしい。下図の場合,枠から始まる赤く塗った壁を取り除けば,この迷路は自明になる(位相幾何!)。途中の分岐点に記した「X 」に侵入するといずれ行き止まりにぶつかるが,あらかじめ枠から伸びる壁を緑色に塗っておくと,間違った分岐を避けることができる。


(2)数独(別名ナンプレ)の場合も,ある数字を置ける場所が複数個(通常は2個)あって,不正解を選ぶといずれ行き詰まる:これが迷路の場合の「分岐」に相当する。ある解説本には「他の情報から選択肢が一つに決まるまでは,分岐のどちらも選んではいけない」と書いてある。「必然」を追求するこの解法は「解の一意性」を前提にしている。一方で,以前のブログ(2017年12/10 & 12/12)に書いたように,私の書いた計算機プログラム「数独ソルバー」では「選択肢の一つを仮に選び,行き詰まったら元の分岐まで引き返してもう一つの選択肢を選ぶ」というアルゴリズムを採用している。コンピュータ演算が速いのでこういう「荒技 = brute force」が通用するのだ。


(3)人間の場合もコンピュータに倣って「分岐の一つを選び途中で行き詰まったら元に戻る解法」を採用しても良いのだが,如何せん「元」がどこだったかを覚えていられないのが人間の弱点である。途中経過を記述する色々な書法が提案されてはいるが「決定版」は見付かっていないようだ。さらには,旧ブログにも書いたように「解が複数個ある問題=失題」に対しては,この解法は無力である。このことも「必然を追求する解法」が好ましい理由である。


(4)翻って思うに「解の一意性」はそれほど必須だろうかとも考える。例えば将棋や囲碁の場合は「余詰や変化図」のなかに却って手筋的に面白い技法が含まれることも多いからである:人間の場合は「正しい」と「面白い」は別の価値判断であるようだ。試験の採点のために「一意性」が極端に要求されるあまり,それが数学の本質であるかのように誤解されているが,解が複数個ならば「全ての解を求める」のが数学の本来の目標のはずである。最近の私の「連分数論文」でも「冪級数とその連分数表示の間に一意性がない」ことを積極的に利用して「発散級数の和」を求めている。


(追記:July 7) 数学とパズルの楽しい本をいくつも書いているマーチン・ガードナー(1914-2010)を検索して,それらの多くが国会図書館デジタルコレクションに入っているのを発見して早速にダウンロードした。また,それらのコラム論文が「The Colossal Book of ***」という2巻本に纏められているのをその後に知ったが,あまりに高額なので購入には二の足を踏んでいる。そのほとんどは既に読んだことがあるものだろうし,目次がわかると助かるのだが未だ見付けられていない。

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